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天皇に主権があったのか

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 今の教科書にはよく、「戦前は天皇主権、戦後は国民主権」と書いてあります。これは「戦前は天皇のような独裁者がいて暗黒の社会だった。それが今の憲法によって明るい民主主義の世の中になった」との意味です。この意味での「天皇主権」「主権は天皇にあった」は事実としても法理としても完全な間違いです。

 これとよく混同されるのですが、確かに戦前にも「主権は天皇にあるか否か」という大論争がありました。

 主権は天皇にある派=穂積八束&上杉慎吉の正統学派、吉野作造。著作をよく読めば清水澄。

 主権は天皇にない派=美濃部達吉。著作をよく読めば佐々木惣一。(主権は国家に?)

 この論争、美濃部の圧勝です。結局、主権を「現実の統治権は誰にあるか」に限定した定義に絞ったのが勝因です。現実に天皇は独裁者でも何でもない以上、穂積や上杉が権力のあり方を持ち出した以上、「では天皇は独裁者か」と美濃部に反論されて何も答えられなくなるのです。

 さすがに清水は「国民の権利は天皇によって保障される。だから天皇から統治の正当性を与えられている政府は国家(もちろん国民を含む)を守る義務がある」との論理構成です。当時の官僚は「そういう建前ですね」と理解したようですが。清水が天皇主権説かどうかを言い切るのは難しいのです。少なくとも粗雑な穂積・上杉とはまるで違います。

 吉野は「主権の問題などという学者の議論は現実政治には関係ない。国民を混乱させるだけである」と自分で言い切っていますので、本気で精緻な理論を組み立てた美濃部の方が、この議論では正しいでしょう。吉野の「天皇に主権がある(で構わない)」は政治運動のための用法であって、厳密な学術論争の定義ではないです。本人がそう言っているのだから間違いあリません。

 吉野が何を言おうとしているかと言うと、そもそも欧州において国王の絶対主義を正当化するために発明された「主権」概念を日本で論じる意味があるのか、とのことです。

 国家はいかなる外国とも対等である、国際宗教の下位に立たない、それが主権国家である、という意味での主権において争いはありません。その主権を保持し行使するのが教会でも貴族でもなく、国王ただ一人である、との理論を発明したのがジャン・ボダンです。フランスのアンリ四世はその通りに進めていき、宰相リシュリューやマザランの時代にはかなり実現しました。しかし、絶対王権もまた問題がありすぎたので、革命に至ります。国内的な主権者とは「何をしても良い、主(ゴッド)の代行者」の意味ですから。そもそも日本の国体とはあまりにも違います。

 帝国憲法のどこにも「主権」などという用語は出てきません。伊藤博文は「主権」概念がどのようなものか知っていたのです。だから採用しなかったのです。別に「天皇主権」などと言わなくても、「統治権は天皇にある」と書けば事足りるのですから。それを欧州かぶれの穂積が「日本の主権者は天皇だ」などと教科書に書いて国民が信じるようになったので、吉野は「そこを一々説明しても議論の実質がない」と述べた訳です。

 宮沢俊義は「戦前は天皇主権だった」と歴史を捏造しました。少なくとも戦前の宮沢は美濃部の弟子だったのですが、戦後の言説を見ると考えていることは穂積・上杉と同じです。

「日本にも、全国民の生殺与奪の権を握る主権者がいる。それは天皇である。現実にその主権を行使すのは官僚であり、東大法学部を出たことがその資格である。」という論理構造においてまったく同じなのです。宮沢憲法学は次のように述べます。

「人権とは、憲法の前にあり上にある。」

 戦前の「天皇」を「人権」に置き換えただけです。そしてこれが肝心なことですが、自分で言い出したことを守る気もないところまでまったく同じです。単に「戦前の天皇は恐いもの。戦後の人権はすばらしいもの」との印象を振りまくことが大事なだけですから。

 天皇主権説の危険がわかっている美濃部は「神聖不可侵である陛下を危険にさらす」と排撃し、穂積・上杉師弟を完膚なきまでに論破しました。ところが弟子(のフリをしていた、が正確でしょうか)の宮沢によって、見事なまでに国民の恨みは天皇に向けられました。

 戦後六十年間、教科書に戦前の日本では「天皇に主権があった」と書かれ続けています。そして、「では悲惨な敗戦は天皇の責任ではないのか」との疑問を抱かせるように誘導されています。宮沢の理論構成はよく読めば杜撰なのですが、それだけにプロパガンダとしてはとてつもなく成功していると言えるのです。

 そして今。「天皇って何のためにいるの?皇室って別になくて良いのでは?」と考える若者が増えています。少なくともこの疑問に答えられる大人がどれくらいいるでしょうか。

 私の活動は、「宮沢俊義の呪い」との戦いなのだと認識しています。これは勝ち目があるとか、なさそうだからやめるとか、そういう問題ではありません。最近は「とにかく負けるのはイヤ」という若者が多いようですけど。そういう人にこそ言いたい。

 明日地球が滅びると知って林檎の木を植えるのは愚かなことですか。人間の努力とはそういうものではないでしょう。大事なもののために戦って傷ついても、それは負けではないのです。そう思えば恐れるものは何もないのではないですか。

 私は、このままでは日本の終わりが迫り来ているわかったからこそ、自分の手で運命を切り開くのだと決意しました。