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TBS版「官僚たちの夏」は来ない 第八回

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(これまでのあらすじ、その1)戦争から敗戦へと向かう日本国内で権力をふるう統制派陸軍官僚だったが、アメリカの軍事侵攻の前に、日本民族自体が風前の灯と言う悲惨な状態に追い詰められた。そんな時、敗北を受け入れるかどうかで、和平派の東郷外相と抗戦派の阿南陸相が激しく対立。鈴木首相は裁断を下せず、天皇の御聖断という異例の形式で和平案を採択する。

 これには阿南陸相も恐懼して主張を撤回したが、一部の青年将校は敗戦を受け入れられずに皇居に乱入して近衛師団長を惨殺するという暴挙を敢行する。責任を痛感した阿南は切腹して、青年将校らの興奮を抑えようとする。。。結果、本土決戦や革命の悲惨さは免れた。

 おっと、これは同じTBSでも、昔の「東郷茂徳 命なりけり」のあらすじでした。史実とは細部が違いますけど。ということで、、、

 

(これまでのあらすじ、その2)敗戦から復興へと向かう日本国内で権力をふるう統制派経済官僚だったが、アメリカの経済圧力の前に、日本産業全体が風前の灯と言う悲惨な状態に追い詰められた。そんな時、敗北を受け入れるかどうかで、受諾派の玉木局長と抵抗派の風越局長が激しく対立。前園次官は裁断を下せず、大臣の御決断という異例の形式で受諾案を採択する。

 これに風越局長は激怒して主張をさらに硬化させ、歴史の流れを受け入れられずに、あまつさえ大臣の政敵のもとに駆け込み、事を霞ヶ関のみならず、永田町にまで波及させ、政官界を巻き込んだ一大混乱へと拡大していく。結果、大臣と玉木局長が泥をかぶり憎まれ役になることで事態の収拾がようやくはかられる。。。

 これでどこが風越に共感できるのかがわからん。

 

 第二次護憲運動の時、犬養毅が「清浦(首相)が相手じゃ張り合いがないなあ」と述べたそうだが、第一次の時は強い桂太郎が相手だっただけにやりがいがあったのだろう。何だか、そんな心境である。番組唯一の話題が、平均視聴率を10%切っていることぐらいでは。。。

 官僚批判が吹き荒れる中、官僚賛美、しかも間違った政策を推進した官僚を賛美するというドラマ、蟷螂の斧にも似て哀れに感じる。

 特番を挟んで第二部開始、ということらしいが、「架空の話」ぶりがすごすぎて、もはや論評できないというか、原作の風越とも別人格になっているし。今回はただのイイ人に。

 疑問1:三池争議って通産省、しかも官僚だけで対処したのですか?普通はこれ、労働省の、  しかも石田博英大臣の功績とされるのだが。孫に当たる三宅雪子議員、どう思うのだろう。

 疑問2:池内総理(池田勇人)が政敵の須藤(佐藤栄作)に禅譲。金権腐敗選挙の原点と言われる自民党総裁選などなかったことになっている。ついでに須藤の性格が、ほとんど三木武夫と化している。

 さらに気になったのが、須藤(注・政治家です)が、玉木通産事務次官(注・官僚です)に、「熱意と想いを否定してどういう国ができる?君がどういう国を作りたいのか心配だよ」と迫る場面がある。政治家が官僚に言う台詞ではない。これを見たら官僚が政治家より偉くて強いと思うのでは?実際に戦後の報道の問題点としてしばしば挙げられるのが、政治家が官僚の意向を無視した時に政治家の方を叩くと言う傾向があることである。また、政党を、決定権を握る官僚への圧力団体、としか見ない風潮も問題だろう。実際にどういう法律を作るかを決めるのが官僚で、族議員は圧力をかけるなどという実態が問題なのだが。

 あと、課長(庭野=堺雅人が演)が、局長(牧=杉本哲太が演)に、「貴方は権力がないと仕事ができないのか?」と怒鳴りつける場面があるが、権力を権限と置き換えると官僚機構ではその通りである。一言の言葉の違いだが、権力と権限、まったく違う概念なのだが、わかって使っていたのかが気になる。

 さて、ご本尊の風越先生。反米ナショナリズムで池内総理と意気投合。左遷されても、仕事に邁進。ノンキャリアをあえて課長に登用。家に食事に招くという、霞ヶ関(の特定の官庁)においては驚天動地の快挙。って、普通の人にはこの意味わからないですよね。私も座学だけではさっぱりわかりませんでした。まず、番組でいきなりノンキャリアとう言葉が登場したので、意味不明になっているのだが。そもそも8話で登場というのがおかしいので。まあ、ほとんどエキストラ同然の扱いで画面に存在はしているが、普通の人が画面見て「あ、画面中央の主要登場人物がキャリアで、隅っこに写っているのがノンキャリアで」などとわかろうはずがなく。

 この砦、意外な人から「見てますよ」と言われることが多いのだが、その時に「なぜ『官僚たちの夏』とか城山三郎なんですか?」と聞かれることも多い。きっかけはふとしたことではあるのだが、根本的には官僚機構の問題は、日本人は過去の歴史を反省しているか、という問題そのものになっているからなのである。敗戦を軍部とか陸軍とか東条英機とかの責任にしているのは結構だが、では問題はそれで終わりなのか、戦後の体制は敗戦までと根本的に変わって、薔薇色の社会になったのか、ということなのである。

 城山作品の、特に『官僚たちの夏』を取り上げた理由が、

東大法学部卒キャリア官僚賛美作品、だからである。

 ではなぜ私がキャリア・ノンキャリアの区別を敵視するのか。

アパルトヘイトだからである。しかも無能な

 これは、戦前戦中戦後と一貫しており、近代日本のひずみそのものである。それで、キャリア官僚が優秀であればまだ救いがあるのだが、そんなものはまったくの幻想であって、単に失敗の誤魔化し方が上手いから政治家や企業と比べて叩かれるのが後回しになったと言うだけである。

 政治家にも経営者にもキャリア官僚にもノンキャリア官僚にも、優秀な人もいれば無能な人もいる。当たり前である。キャリア官僚だから優秀、などということはありえないのである。制度そのものがおかしいのである。なぜこんな制度が導入されたかは、「伊藤対山縣」を参照。

 鳩山さん、政権発足直後に何をやるかが大事でしょう。キャリア官僚制(国?試験制度)を廃止してみたらどうだ?衝撃的だと思うが。採用試験を廃止するとともに、今の?種と?種?種の区別を無くす。少なくとも?種と?種の区分を統合する、くらいのことはやってもよかろう。本気で「官僚支配の打破」などと思っているなら、そこからやれば良い。特殊法人だの天下りだのは枝葉の問題である。

 まあ、やらないだろうけど。自民党があまりにもだらしなさすぎて目立たないが、民主党の朝令暮改のすさまじきこと。自民党も、一回喧嘩に負けたくらいで落ち込むなど、情けないことこの上ない。