主(GOD)の偉大さをどう捉えているかに関して、よくやるたとえ。
その1 この世をパソコンとしよう。造物主は、最初から完璧なプログラミングをしたから偉大なのである。人間の目にいかにバグに見えようと、それは人間にそう見えるだけであって、完全無欠の造物主がバグがあるパソコンなどつくるはずがないのである。=プロテスタント。預定説。人間に自由意志などない。
⇒ルター派は最初、預定説でカトリックを攻撃した。バチカンが「免罪符」を売りまくり、「これを買えば天国に行ける、などとなぜ言えるのだ?天国に行ける人間は預め定められているはずだ!」と、攻撃した(宗教原理主義から霊感商法を批判しただけであり、現代の価値観で計ってはいけない。)。これを宗教改革と言う。ただし、これだとあまりにも救いがないし、スポンサー筋のザクセン公の受けも悪いし、ドイツ農民戦争などを起こす連中が暴走するので、あまり言わなくなる。それを「日和った!」と攻撃して台頭したのがカルバン派。
※ルター派の主要国=ドイツや北欧
※カルバン派の主要国=アメリカ・オランダ・スイス
その2 この世をパソコンとしよう。造物主は、いかなるバグも直せるから偉大なのである。この、あらゆるバグを直せる能力を「奇跡」と呼ぶ。=カトリック。人間に自由意志はある。
⇒プロテスタントの攻撃に対し、それまであまり理屈っぽいことを考えてなかったカトリック内に、イエズス会とかドミニク会とかフランシスコ会とか、理論構築と海外布教を好む集団が現れる。預定説だとあまりにも救いがなさすぎるので、人間の自由意志に基づく努力を認めるようになる。これを対抗宗教改革と称する。
※カトリックの主要国=イタリア・オーストリー・イベリア両国・フランス・ベルギー
※英国国教会はプロテスタント扱いだが、中身はカトリック的。
ヨーロッパとかキリスト教といっても、考え方の根底が違うのですね。カトリックはバチカンを頂点にヒエラルキーが歩けど、プロテスタントは教会ごとに違うのですね。
以上の違いを認識した新井白石のイタリア人宣教師シドッチへの質問。
「その造物主とやらが完璧ならば、なぜこんな不完全な世の中をわざわざ作ったのだ?特に人間とか。それと、その造物主は誰が作ったのだ?」
カトリックについてはあまり知られていないですね。日本はプロテスタントの方が多いのでしょうか。信仰義認説についてはどうなのでしょうか。
ルターって結構不勉強で、宗教改革始まってから「フスって正しいこと言っている」などと気づくのですよね。まあ人間らしいとも。
信仰義認=仏教的な因果律の全否定ですから、日本人にはおよそついていけない議論ですね。
日本人って「善い事をしたら良い結果がもたらされる」と考えているので、「救われる人間と救われない人間は天地開闢の時に定められている」とか、「最後の審判の日に救われる人間は主を信じている人間だけ」とか「人間が良いことをしたから良い結果をもたらせ、などというのは主に対する冒涜である」とか「現世で大金持ちになるのは救済される証」とかの預定説にはついていけないでしょうね。
欧州人もカルバン派とツィングリ派以外は嫌気がさしたくらいですから。
この辺り、小室直樹先生の御著書を読んでいるとわかりやすいですね。あの人の本って、いかなるテーマであろうと預定説ですから。・・・三国志から数学教育まで。。。
しかしキリスト教的価値と括りたくなる人間は多いですよね。
僕の友人や知り合いにもクリスチャンの知り合いがいるのですがどう見てもおんなじ宗教とは思えないほどの差異があるのに。
(ある友人はこの世で起きていることは全て神が決めたことだから受け入れるべきだという自由意志の存在を否定していた。一方で別のクリスチャンの友人は自由意志を認めていた。)
神(GOD)のとらえ方一つで多神教の神様に置き換えた存在なのかユダヤ教と同様に自由意志を否定するところもありますからね。
それをひとくくりにして明治期の知識人を事あるごとに「キリスト教的価値観によって…」なんという学者にはなんと言っていいのやら。
それに「全知全能」の神がいるのでしたらなぜ”神国”として日本はあり、日本はそこまでキリスト教が普及せずにそのままあるのかという問題がありますからね。
そこの矛盾をどうとらえるからも難しい問題ですし。
倉山さん
こんばんは。藤沢秀行です。
毎日更新記録塗り替え中!と言った所でしょうか。
完全制覇目指して頑張ってください。
ここ数日、入る(参加する)タイミングを計りかねておりました。小室直樹が出てきましたので、氏の話を引用しながら、思った事を記載させて下さい。
引用が不正確ですみませんが、こんな話がありました。倉山さんがされた話と似ていますが。
私(小室氏)が学生に予定説の話をしていたら、こんな回答が帰って来た。
学生:「良い事をしても悪い事をしても救われるかどうかと関係ないなんて、淫祠邪教の類じゃないの。そんな神様、退治してしまえ」
(小室氏)これには参った。キリスト教の神様は退治出来るようなヤワな代物ではないのである、云々。
何れにしても、日本の神様と随分(根本的に)違いますよね。勿論、国際社会を理解する上では避けて通れない所でしょうけど。別の点では、日本人の感覚だと、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教はそれぞれ別の神様に見えますよね。勉強している人にはそんな事はありませんが、一般的な所ではそう受け止めてもおかしくない部分があると思います。
本当はこれが分かっていないとアメリカもヨーロッパも中東もイスラエルも理解できないと思うのですが、なにぶん難解ですよね。私自身、これが分かってないといけないという事は分かっていても、その事については理解出来てません。
ですが、外交と国際政治についても専門家に任せておけばよいと言う事にはならないですからね。国内問題だけではなく、これも民度の内ということなのでしょう。割を食わないためにも、相手について知る事は大切だと思います。
年頭のご挨拶にもありましたが、天下大乱の予兆とも思えるニュースが続いております。大きな節目の一年になるという気は私もしています。みんなで正しい方向に向けて進むべく頑張って行きましょう。
それではまた。
仏教における大乗と小乗が、キリスト教のカトリックとプロテスタントの関係と似ていますね…
「動物を食べてはいけない。」というのは日本ぐらい(インドは牛は食べちゃいけないが)で、食べちゃうと「来年から農作業が辛くなるよ!」という教えです。(役に立つ動物はどこの時代、国でも神扱いされています。)
『動物って、食べられんの?あんなもん食べてもきっとまずいよ。」とかいう禁忌(タブー)は、牛や馬を食べても「まじい、くっさー、食べれないじゃん!」とまで信じ込ませます。
いのししは「ボタン」、鹿(当時は馬じゃないです。)が「さくら」、と言って食べちゃったのは、農作業にあまり役に立たない動物だったからです。
古代は「暦」が人民を支配する道具であり、農作業の1つ1つを神と名付けています(お米には八十八の神が宿る)。
社会の進化に合わせて、流行する宗教も進化する。むしろ、時代に合った新興宗教が生き残ってきたと言うべきかなあ?!