正確には、総裁選挙は行われていないけど、あえてご紹介。
福田赳夫という人の末路。
今まで既出の話もあるけど、福田主役というか福田目線で。
福田は大蔵省主計局長の時に昭和電工疑獄に巻き込まれて逮捕。
後に無罪となるも、長らく「主計局長でありながら次官になれなかった人」という汚名を着て生きていく。
ただ、これは占領下の派閥争いで流れ弾に当たったようなものだから、「可哀そうだから総理大臣にでもしてあげなきゃ」ということで大蔵省の全面的支援を受けることになる。
政界では岸信介(安倍さんのおじいさん)の派閥に属す。
ちなみに、福田の後継者が安倍晋太郎(安倍さんのおとうさん)で、
「安倍派四天王」と言われた、三塚博や森喜朗がさらに派閥を継いで今に至る。
さて、岸実弟の佐藤栄作の長期政権で福田はこれでもかと重用される。それでも角福戦争でひっくり返されたのは前回お話の通り。
田中角栄内閣は経済政策で行き詰まり、頭を下げて福田に蔵相就任を依頼。
福田は「列島改造をやめろ」とか田中内閣の看板政策を全否定して受諾。
生涯負け続けた福田が田中に勝った唯一の場面。
しかし、参議院選挙を機に副総理の三木武夫と田中の確執が本格化。
三木は辞表を叩きつけ、乗せられた福田もいっしょに辞任。
これに関して見落とされがちなのが、福田派の橋口収主計局長が放逐され、田中の「私兵」と言われた高木文雄主税局長にさらわれたのが大きい。大蔵省を蹂躙する田中派と防戦一方の福田派大蔵官僚、という構図。
田中の金と女に関する醜聞が金脈政変に発展、田中の支援を期待する大平と睨みあっている間に、大穴の三木に総理の座をさらわれてしまう。
総理の座が目の前を二度もすり抜けていった。
そして三木政権では副総理経済企画庁長官として、「狂乱物価」に対処。「全治三年」の日本経済を立て直す。(「」はいずれも福田の造語)
三木内閣の勢力図は、
主流派=三木・中曽根・福田
反主流派=大平・中曽根・その他有象無象中間派
ということで、党内第四派閥で人望ゼロの三木総理は福田派の支援で政権を支えている恰好。
つまり、福田にとって都合がよい体制。
それが、大平の口車に乗って三木おろしをはじめてしまう。
しこかもロッキード事件で角栄が逮捕されると「忠臣蔵だ」とか言いながら、三木と全面対決。
この時の福田の言い分は「三木は何をしでかすかわからない。財界と官僚機構と自民党保守本流に喧嘩を売ることしかしてない」ということなのだが。
ここで福田側近に深刻な対立が発生していたのは重要な事実。
一人が松野頼三。親米派。というかグラマンダグラスの代理人。
「しょせん、田中や大平は敵だ。ここは三木を支えるべきだ。実権を握れるし、三木が躓けば総理の座は転がり込む」
もう一人が園田直。ウルトラ親中派。田中角栄のスパイとか言われてた。
「政権は握れるときに掴まなければだめだ。あんたはもう71才だろ!」
・・・その後10年も福田と三木と角栄が老害として政界を壟断する未来など、この時はわからない。
福田は松野を切って園田に乗る。
昭和51年9月15日の改造では、松野の幹事長就任を福田が阻止する。
もし松野を幹事長にしていれば田中派はこの時に壊滅していたかもしれなかったのに、と悔やんでも後の祭り。
史実では、その後約30年間、親中派が日本を支配することになる。
なお、この時の改造では松野の他、小坂善太郎・福田篤泰・早川崇といった真の自民党保守本流、つまり福田の味方となるべき人々が入閣し、政治生命を終えている。福田は味方となるべき人たちを自ら葬ったわけですな。
粘れるだけ粘る三木に対し、福田は副総理の辞表を叩きつけ、さらに選挙活動を悉く妨害し、自民党は結党以来の大敗。追加公認を加えても過半数を超えること一議席という大敗。さしもの三木も退陣。
福田は大平と田中と「二年で大平に譲る」と密約し、総理に。
しかも大平を幹事長に据えただけでなく、党務をすべて委ねてしまう。伯仲国会で大平と田中派におんぶにだっこ。
大平と中曽根の対立を煽ってうまく使おうとするが、大平と田中に大義名分を与えただけ。
参議院選挙こそ辛勝したが、政権浮揚の解散は阻止され、総裁選挙では大平に敗北。「総裁選挙で敗北した唯一の総理」という汚名を歴史に残す。
唯一の事績は、園田外相が推進した日中平和条約。
要するに、自民党を勝たせるための選挙で使いすてにされ、何もさせてもらえなかった訳ですな。あ、自民党に北京の勢力を招き入れたという実績があるか。(皮肉)
何が何でも総理総裁になれば何でもできる、と飛びついた罪は大きかった。
さて教訓。
まさか世の中に「安倍さんが総理になれば何とでもなる」なんて言っている人はいませんよね?