「憲法典」カテゴリーアーカイブ

日本国憲法六十七条の欠陥

LINEで送る
Pocket

 日本国憲法で内閣を規定した第五章は、戦前の「憲政の常道」を成文化したもので、憲法制定過程において日本人の意思がかなり反映されており、比較的まともな部分である、と大学では教えている。

 ところが、今回の政権交代で日本国憲法の欠陥が明らかになった。具体的には総理大臣の指名を規定した六十七条である、条文の字句ではなく運用の問題である。

 与党大敗を受けて、首班指名で麻生総理の名前を書きたくないとの声が自民党内で噴出した。

 総選挙では麻生総理の継続を訴えるのが自民党衆議院議員候補者の立場であり、その意味では国会での首班指名選挙において麻生太郎と書くのが「憲政の常道」である。

 一方で、国民に不信任された総理大臣に投票するのが選挙民の意思に従うことになるのか、選挙で負けて辞任を表明した人の名前を書くのは不誠実ではないのか、という点からも批判があり、これにも一理ある。ただし、首班指名選挙までに次の総裁を選び首班指名における総理大臣候補としても、その人物が総選挙において選挙民から認められている訳ではないので、この論にもやはり無理がある。自民党が若林正俊両院議員総会会長に投票したのに対して、違和感を覚えた方も多いのではないだろうか。ちなみに制度上は、例えば民主党の中から造反者が出て若林氏に投票して「若林総理誕生」となっても、憲法違反にはならないのである。

 さて、総選挙を介在とした政権交代もまた「憲政の常道」である。これまでの現行憲法下においては、総選挙において与党と野党の絶対多数が入れ替わる経験がなかった。初めての事態で露呈した欠陥である。結局のところ自民党内の感情論はわからなくもないが醜態である。野党第一党の不健全は民主制にとって悲劇である。

 では、議会政治の母国と言われる英国はどうなのか。また帝国憲法下の日本はどうだったのか。外国との比較、自国の歴史の検証から考察してみたい。

 そもそも衆議院の総選挙とは総理大臣を選ぶ選挙である。国民から衆議院第一党に選ばれた政党の党首が総理大臣になる。これが「憲政の常道」である。

 英国では、総選挙の結果を宮殿に報告に行くのは、第一党党首である。国王は報告者を総理大臣に任命する。そもそも首班指名選挙なる制度が存在しないので、総選挙に負けた与党の代議士は次の総理として誰を選べば良いのか、という問題そのものが発生しない。それは政党内で話し合うなり党首を選び直すなり、次の総選挙で選挙民の信任を得られるように自助努力をせよ、と憲法体制が命じているのである。これは条文で規定するのではなく、国家体制としてそうなっているのであり、英国人はこの体制を「憲法」と称するのである。英国においては政治家に良心の発揮を命じる不文の体制が憲法である、このようなあまりにも難しすぎる憲法を採用しているのは英国だけである。だからこそ英国は議会政治の母国と呼ばれ、今でも文明国の模範として尊敬されている。

 ただ、この制度にも欠陥はある。英国の衆議院は完全小選挙区制であり、絶対多数を創造しやすいが、それでも与党第一党が過半数を獲得できない選挙もあるのである。このようは場合は二大政党制は機能せず、何らかの形で連立政権を組まざるを得ない。これを英国憲法論の用語では「革命に近い状況」と忌まれる。

 では「どのような形態の連立政権で誰が総理大臣の地位に就くのか」を決定するのは誰なのか。国王(女王)である。相談する側近や長老政治家は存在するが、最終的には国王(女王)が、自ら判断を下せなかった国民に代わり決定するのである。そして過去に「憲法の趣旨に反する」と批判される事例もあるのである。これは明らかに民主制に反する事態であるし、国王に責任を押し付ける以上は国民の反感を招来する危険もある。

 翻って帝国憲法下の日本はどうだったか。大正十三年から昭和七年までが「憲政の常道」が実現した時期である。この期間において、実質的に首相を選定したのは唯一の元老である西園寺公望であった。英国と同様に首班指名選挙のような制度が存在しないが、形式的に首相を任命するのは天皇であっても、首相候補者を奏薦するのは西園寺元老であり、天皇には責任が及ばない。国王が最終的な責任を負う事態を甘受する英国憲法の欠陥を見事に克服しているのである。

 議会政治は英国が母国だが、君主制の歴史は日本がはるかに長い。我々の先人達は文明国としての最先端の制度を取り入れつつも、自らの優れた点を活かしつつ、立憲主義国家を創りあげたのである。

 戦前日本の民主制が不充分であった根拠として挙げられるのが、総選挙においては必ず与党が勝利する、「憲政の常道」と雖も総選挙の結果によって政権交代が起きたのは第二次護憲運動による第一次加藤高明内閣だけであって、他はすべて元老が野党第一党に政権を移行させた後の総選挙で多数になっているだけではないか、という批判である。これは当時から吉野作造などがしていた批判であって相当の根拠がある。吉野曰く「政府権力を使って力ずくで作り上げた多数派にすぎないであって民意を反映していないではないか。だから世論が与党に批判的になって政府が強いことをできないなどと言う事態が生じるのではないか」と。

 この吉野の論理を錦の御旗か金科玉条の如く振りかざし、戦前日本には戦後憲法のような民主主義はなかったと主張する論者が如何に多いことか。同時代に生きる吉野の主張は国家のより良い発展を祈っての批判である。吉野は戦後民主主義者ではないし、戦後民主主義的な言説はしていない。吉野は国家を愛したが為に政府を批判し続けた政治学者である。しかも日露戦争に勝利して大国となってからは国民的利益が必要であろうとの、時代状況を鑑みての立場からの批判である。間違いなく戦後まで生きていたら、時の政府を批判し、愛国主義を絶叫していたはずの憲政史家である。

 日本国憲法においても総選挙による政権交代など、今回も含めて三回しかないではないか。日本国憲法においても常に与党が勝利し続けたのに、なぜ戦前日本を悪し様に罵倒できるのか。

 そして忘れられている事実がある。第一回総選挙から第六回総選挙はすべて野党(民党)が勝利しているのである。時には死人が出るような政府の選挙干渉が存在していたにもかかわらずである。この事実が、政権担当可能な政党の結成へと伊藤博文や桂太郎などの元老を走らせているのは周知である。

 また、「憲政の常道」においても政府の支持を得た政党が勝利するなどという確証はどこにもないのである。現に田中義一内閣は、単独過半数を獲得できずに議会運営で窮地に陥っている。

 第二次若槻内閣末期、そのまま与党民政党内閣が総辞職すれば野党第一党政友会が政権を担当する。しかし民政党は衆議院の絶対多数である。政友会の少なくない数の議員が解散総選挙での多数獲得と自己の当選に自身が持てずに、与野党大連立内閣である「協力内閣」運動に奔走するのである。

 戦前日本は民主制の観点からは問題が多かっただろう。しかし、戦後の日本がそれ以上に愚かではないとなぜ言えるのか。

 政権交代が実現した今こそ、考えるべきは「憲政の常道」とは何かである。

 世界に冠たる立憲主義の確立に努力した先人達の努力、今の我々ができないはずがないではないか。