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なぜ「大学では教えられない歴史講義」なのか その2

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歴史家の使命

学者の使命とは、考える材料を提供することにある。歴史家もまた同じである。
イタリアの歴史家であるクローチェ(Benedetto Croce)は「すべての歴史は現代史である」と、『歴史叙述の理論と歴史』において述べた。どこの国、いつの時代を扱っても、それは現在の自分や自国にとって何らかの示唆を与えるためである。

では現在の価値観に従って、現在の色眼鏡で過去を観れば良いのであろうか。いや、この方法が誤りであると、人類は知っている。特に、人類の歴史を階級闘争であると看做したマルクス主義は悲劇であった。かの者たちはあらゆる歴史を自らの色眼鏡で観た。事実が自らの理論に合わないと、理論ではなく「事実の方がおかしい」と修正した。二十世紀の一時期、彼らは地球の半分を支配した。そして怖ろしいことに、その残滓は日本の学界に残存している。

長らく「五十年以内の歴史など歴史ではない」「昭和史など歴史学の対象ではない」などの言説が蔓延っていた。なるほど、当事者がすべて物故してはじめて現実の利害から自由な歴史描写が可能であると言うのも一理ある。しかし、昭和史に関して言えば、「戦前の日本は悪であった」とする特定の立場が絶対視され、そのような価値観を押し付けることによって利益を得ている人たちがいる。そして何十年たっても、このような立場からは自由になれない。
その結果がどうであろうか。ことあるごとに特定のアジア諸国から「歴史問題」なるものを持ち出され、現実の国益が損なわれているではないか。

しばしば、「後世の歴史家の判断に委ねる」という表現が用いられるが、現在の日本の歴史家の判断ほど信用できないものはないではないか。例えば、「南京大虐殺」なるものに関して世界で最も反日的な大学は、ペキン大学でもナンキン大学でもなく、トンキン大学ではないか。現在の歴史家がこの有様であるのに、どうして未来の歴史家を信じられようか。

現在の我々に意味ある歴史を考えるには、その時代の価値観がどのようなものであったのかを明らかにしなければならない。究極的には、文化である。その時代の常識や雰囲気がどのようであったかを明らかにしなければならない。ましてや現在の価値観で過去の時刻の歴史を断罪するなど論外である。

では同時代を生きる歴史家には、自らの生きる時代を伝える使命があると言えよう。自らが生きる時代の描写ができなくて、過去への洞察などありえまい。

歴史家の端くれとして、この日記では、自分が生きた時代を可能な限り伝えたいと思う。

参考文献
クロォチェ『歴史の理論と歴史』(羽仁五郎・訳、岩波書店、一九五二年)