以下、門外漢には何のことかわからない話だろうけど、専門的な応用中の応用なので悪しからず。
歴史学界では、昭和6年に民政党と政友会の協力内閣(つまり二大政党の大連立)をやっておけばよかった、との説が多数説になっている。
じゃあ誰が首相でどんな内閣だ?と聞くと、「インパクトがある」みたいな訳の分からない答えしか返ってこないのだが。ということで、現実の歴史では何十通りもの組閣名簿が出ていたのだが、そのすべてが使えない。
そこで無理やり自分で考えてみた。年齢は満州事変が起きた1931年の時点。ついでに41年(に生きていたら)も。( )は生年。
31年だと民政党内閣で満洲事変を抑え込むのが目的となる。高橋と松岡は政友会ですね。
41年だと対米開戦回避の内閣。史実では政党は存在しないし、井上と高橋は殺されている。
首相 井上準之助(1869) 62 72
→昭和戦前期、最強の政治家。
いろいろ考えたが、井上自身の手で金解禁をやめさせたら、大日本帝国は滅びるはずがなかった。井上蔵相時代の陸海軍、見ててかわいそうなくらい痛めつけられている。
蔵相 高橋是清(1854) 77 87
→戦前最優秀の蔵相。どうせ協力内閣をやるなら、井上の指導力で高橋の政策を実行する、くらいじゃないと何の意味もない。
外相 石井菊次郎(1866) 65 75
→実は高橋是清なんかよりはるかに若く、なんで史実のように若隠居状態となったかが謎。
内相 松岡洋右(1880) 51 61
→31年の段階だと内相はやりたい奴にくれてやるポスト。41年だと治安問題が重要。特に対米開戦回避とかなると。
内閣書記官長 斎藤隆夫(1870) 61 71
→憲政の常道がもう少し続いていたらと思うが、史実でなんで出世できなかったのかが謎。
なお、41年の段階で陸海相を選ぶとすると?
陸相 梅津美治郎(1882)59歳
海相 井上成美 (1889)52歳
以上、間違いなく実行可能性ゼロに近い。
だから、「協力内閣」なんて、ただの政権にありつきたい連中の陰謀にすぎない、という結論に落ち着くのだが。
イフをやってみたけど、結局、歴史を学ぶのは次に生かす教訓しかない。
石井は、加藤高明憲政会内閣時、外相になるはずだったのを辞退して幣原喜重郎に譲ってしまいました。
だから残念ながら明治の元老たちほどには使命感がなかった、ということではないでしょうか?
先生の書籍みると石井菊次郎の意見が無視され続けたのが大日本帝国の悲劇ですよね。
原敬からは異常に嫌われたと言われてますがそれ以降からの政治家からも無視されたのは何か訳があるのでしょうか。例えば石井本人が民政党員となり、外相になれてたなら…と考えてしまいます。