滝本哲史さんの訃報がNHKニュースやYahooトップに上がっていました。
最近会わないなと思っていたら、癌で闘病中だったそうです。親族の御意向で告別式が終わるまでは秘匿とのことでしたので伏せておりましたが、ここに追悼の辞を述べたいと思います。
以下、いつものように、タッキーさんで。
タッキーさんとの出会いは私が大学一年生の時、中央大学辞達学会のたまり場である小池亭(先輩の下宿)に入り浸っていた時、その何回目かの宴会に東大弁論部三年だったタッキーさんも参加されていたのが最初と思います。
弁論部というサークルは基本的に学歴差別がないのですが、唯一の例外が東大で(笑)、「お前東大のくせに」と言われる可哀そうな大学でした。タッキーさんの場合は、事あるごとに「これだから麻生~東大は」とからかわれていました。(笑)
タッキーさんは理屈大好き人間が集まる弁論部の中でも理論派で、大学弁論界のディベートの統一ルールを作ったりしていました。後輩たちからは「あの人に褒められた時、本気か嫌味か、頭が良すぎてわからん」と言われて、畏れられつつ尊敬される存在でした。
さらに弁論部と言えば傲慢な人間の集まりで、他人をほめることなど皆無なのですが、多くの先輩が「俺より頭がいいのはタッキーだけだ」とつぶやいていたのを聞いています。そういうのを聞くとタッキーさんは「当然でしょう」と平気で返す人でしたが。
タッキーさんはけっこう本音を隠す人として有名でしたが、私のような劣等生には言いやすかったのかもしれません。
進路は東大法学部助手。民法の権威の内田貴先生のお弟子さんとして、後継者の道を歩んでいました。大学に残れば、我妻栄以来の東大法学部の伝統を継がれたでしょう。
ところが、約束された東大法学部教授の椅子を蹴り、外資系企業に就職。自分の力で生きていく道を選ばれたときは、驚愕しました。後年、「倉山君は、3%くらい学界に未練があるよね」と言われたことがあるのですが、真意はあまり聞きませんでした。タッキーさん能弁なようで、自分の行動を説明しない方でしたし。韜晦がひどすぎる人でしたが、間違いなく世の中への怒りと正義感を秘めている人でした。
勝間和代さんと上念司さんと組んでビジネスを成功させたのはご存知の通り。私も出版プロデューサーの真似事をすることもありますが、タッキーさんの真似事を見よう見まねでやっています。
二度の内定切りの後、未来に絶望していた私をこの道に誘っていただいたのは、上念司先輩とタッキーさんです。
「倉山満の砦」の命名者はタッキーさんであり、デビュー作の講談社を紹介してくださいました。などなど、右も左もわからぬ私に手取り足取り教えていただきました。
晩年の写真だと激やせしていましたが、闘病の末の47歳の早すぎる死。まだまだやりたいことがあったでしょうにと思うと、やりきれない気持ちです。
合掌。