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寺内対原(1)―大正デモクラシーの前提―

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 大正デモクラシー、というのは戦後の用法である。信夫清三郎という元々左翼、晩年は右旋回した政治史学者が命名した。当時は大正リベラリズムの方が使われた。

 大正デモクラシー、いつ開始されたのか。日露戦後である。

 ここで問題。日露戦争は、どちらがどれくらい勝ったでしょうか?通説は、「日本の辛勝」とされる。根拠は「賠償金をとれず、領土もほとんど取れなかったから」。点数をつければ、「日比谷で焼き討ちでもしてなさい。不可」です。教科書にこう書いてあるが、だったら小村寿太郎は国賊なのか?

 戦争の勝敗はどのように決するのか?目的を達成できたかどうかである。では日露戦争は何を目的として戦ったのか?朝鮮半島の三十九度線(三十八ではない)より南に来て欲しくない日本とそれを無視したロシアの争いである。結果、朝鮮半島どころか、南満州までを勢力圏とした。日本の大勝である。定跡で考えれば、死傷者・樺太などの領土問題・賠償金で決まる訳ではない。戦争の勝敗が目的以外で決まる定跡をはずれた事態である、と主張するならば、その根拠を持ってこなければならない。いきなり「日本軍にはもう弾薬がなかった」とか、「ロシアには欧州軍が健在であった(としても精鋭部隊は日本陸軍に撃破されているのだが)」とか、そんな事実を持ってこられても、どちらがどれくらい勝ったかという議論とは無関係である。ところが、ここから説明をはじめねばならないので疲れるのだが。

 さて、とにもかくにも、日本はロシアに勝った。ただ、復讐戦を警戒しなければならない状況なのは確かである。結果的にロシアの関心は満洲からバルカン半島に向いた。日英同盟と露仏同盟は明治四十年に四国協商として結びついた。ついでに米国にも対日警戒論が台頭し、日本の教科書がさも戦争前夜のようにとりあげる瑣末な摩擦はあったが、セオドア・ローズベルトにも、後任のタフト(ローズベルトの陸軍長官)にも、本気で日本と戦争をする意思も能力もない。明治四十一年に高平・ルート協定が締結される。これで日本と米国の友好も確保された。

 ここにようやく日本は、アヘン戦争で認識して以来の、本当は七年戦争で鎖国の前提が破れて(この話は「帝国憲法講義」でしました)以来の、脅威を取り除くことができたのである。

 明治四十四年の関税自主権回復すなわち不平等条約の撤廃は時間の問題となった。外交史以外では強調されないが、日露戦争の勝利によって我が国は、英・独・露・仏・墺・米・伊(以上、力関係での格付け順)の新旧大国と大使交換をしているのである。この頃は公使交換が普通で、大使を交換するのは大国どうしだけである。つまり、日本は大国として認められたし、実質的に十年間の安全保障を得たのである。明治四十年こそが日露戦争の勝利が完結した年である。

 明治四十一年高平・ルート協定の意義も過小評価はできない。ただ、テディー本人が「日本と本気で戦争をする気なら、英国海軍とドイツ陸軍が必要である」と述べているように、「アメリカと戦争にならない状態が絶対に必要」などという、アメリカこそが常に世界最強最大の国という、無根拠な恐怖感に基づかない限り、高平・ルート協定は「最も重要な保険」くらいの評価が妥当かと思う。命綱は日英同盟だし、次いで日露協商でロシアの目をアジアからそらせるのが重要なのは間違いないので。

 ちなみに米国恐怖症にかかっていた、当時の重要人物が原敬。だから困るのである。

 さらに日本近代史のおかしな議論について。「日露戦後、満洲の利権をめぐって日露対英米の構図が明確になった。ロシア革命で帝政ロシアが滅ぶと、日本はアングロサクソンの脅威の前に・・・(以下は馬鹿々々しいので略)」という議論がはびこっている。

 素朴な疑問。確かに日本にとって満洲は最大の関心事です。では、その他の諸国は?

 英国・・・ドイツの挑戦。

 ロシア・・・バルカン問題。ハプスブルクやオスマンと一触即発。小国は敵も味方も全員血迷っている。

 米国・・・中米諸国。特に米西戦争で獲得したパナマ。隣国のメキシコは革命動乱なので、第一次大戦にもかかわってなどいられない。

 すさまじきかな、日本中心史観。ただ、当時の元老の立場になれば、安堵感がただようのもわかろう。伊藤と山縣の喧嘩などもその為の弛緩である。

 明治四十年(一九〇七年)から大正七年(一九一七年)の十年間、日本は何も考えなくても安全が保障された、幕末維新以来の貯金があった、これが大正デモクラシーの前提である。国家の安全がなければ民主制(デモクラシー)などありえないのである。

 吉野作造の言葉を借りよう。

「確かに幕末維新は少数の志士達が成し遂げた偉業である。彼らが元老の地位にいるのは認めよう。しかし、日清日露戦争は国民全体の力で勝利したのである。これからの時代は国民の声を聞いて政治を行うべきである。それによって文明国となる維新の大業は成就するのである。」

 戦争に協力したのだから、国民にも参政権を認めよ。ナポレオン戦争以来の国民戦争で起きた現象が、欧州各国と同様に日本でも発生したのである。この運動を大正デモクラシーという。

 この運動、当時は憲政擁護運動と名付けられた。創った元老だけでなく、国民にとっても大日本帝国憲法は大事な存在だったのである。

 護憲運動と略されるが、条文を守れという内容ではない。明治天皇が定めたもうた憲法の精神に立脚した政治を行え、というのが主張である。

 さて、いよいよ、山縣の後継者の寺内と伊藤の後継者の原が激突、、、しないんです。この二人、力関係に差がありすぎて、まともな衝突にならないんです。さあ、どっちが強いのでしょうか。自由に予想してください。(つづく)